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相川:近代化遺産:ギャラリー

記事ID:0004493 更新日:2021年3月1日更新 印刷ページ表示

大立地区大立竪坑(おおだてちくおおだてたてこう)

大立地区大立竪坑日本初の西洋式竪坑。道遊坑のすぐ近くにそびえています。

大立竪坑(おおだてたてこう)

大立竪坑の画像1捲揚室に残る昭和時代の捲揚機。ここから垂直に掘られた深さ165メートルの坑道を横切るように、49.5メートルごとに水平坑道が掘られています。

大立竪坑(おおだてたてこう)

大立竪坑の画像2捲揚室には大正時代のコンプレッサー(空気圧縮機)も残されています。この竪坑によって採掘量が月産3万トンと劇的に増加しました。

道遊坑(どうゆうこう)

大立竪坑の画像1鉱車用レールが敷設され、坑内作業員、採鉱、坑内保全用の資材などが鉱車で往来していました。

道遊坑(どうゆうこう)

道遊坑の画像2足元には鉱石などを運搬するトロッコのレールが残っています。

道遊坑(どうゆうこう)

道遊坑の画像3相川金銀山の坑道は、総延長が約400キロメートル、最深部は海面下530メートルに及びます。両脇を支えるのは、落盤などを防ぐ山留(やまどめ)の木材。

道遊坑(どうゆうこう)

道遊坑の画像4岩盤から染み出た地下水が水たまりになっている。鉱石の採掘は排水との競争でもありました。

佐渡鉱山機械工場(さどこうざんきかいこうじょう)

佐渡鉱山機械工場坑道内で使用されたトロッコや掘削機などの整備や修理を行っていました。

三菱の金庫(みつびしのきんこ)

三菱の金庫相川金銀山は1896(明治29)年、宮内省から三菱へ払い下げられ、1989(平成元)年まで採掘が続けられました。

間ノ山地区搗鉱場(あいのやまちくとうこうじょう)

間ノ山地区搗鉱場1891(明治24)年、完成。当時、国内では最も整備された製錬所でした。

搗鉱場(とうこうじょう)

搗鉱場右手に見えるのは道遊の割戸。

高任地区工場群(たかとうちくこうじょうぐん)

高任地区工場群左より粗砕場、貯鉱舎、分析所(そさいば、ちょこうしゃ、ぶんせきじょ)

粗砕場第1層内部(そさいばだいいっそうないぶ)

粗砕場第1層内部鉱内から運び出された鉱石はトロッコに乗りこの粗砕場に運ばれました。

粗砕場(そさいば)

粗砕場粗砕場に運ばれた鉱石はクラッシャー等の機械により直径15センチメートル以下に破砕されました。

貯鉱舎(ちょこうしゃ)

貯鉱舎の画像1粗砕場とともに一連の施設として建設され、ベルトコンベヤーでつながれていました。

貯鉱舎(ちょこうしゃ)

貯鉱舎の画像2最大2,500トンの鉱石を貯蔵し、必要に応じて北沢の選鉱場へ鉱石が運ばれました。

北沢地区50メートルシックナー

北沢地区50メートルシックナー選鉱を経て金銀の含有量が少なくなった「泥鉱」を、鉱物と水とに分離・濃縮する施設。

50メートルシックナー

50メートルシックナー直径50メートル。近づくと圧倒されます。かつては大小さまざまなシックナーが存在していました。

北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう)

北沢浮遊選鉱場の画像1浮遊選鉱とは製錬方法の一種であり、金銀採収に応用されたのは佐渡が世界初でした。

北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう)

北沢浮遊選鉱場の画像2月間7万トンの鉱石を処理するなど、東洋一の規模を誇っていました。奥に見えるのは日本海。

北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう)

北沢浮遊選鉱場の画像3右が浮遊選鉱場、左がシックナー。

北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう)

北沢浮遊選鉱場の画像4上に建っているのは旧公営住宅。その左手には相川金銀山へ続く町並みが続いています。

北沢地区 御料局佐渡支庁跡(ごりょうきょくさどしちょうあと)

北沢地区 御料局佐渡支庁跡1869(明治2)年に官営となった佐渡鉱山は1889(明治22)年には宮内省御料局に移管されました。

大間地区レンガ倉庫

大間地区レンガ倉庫鉱石や鉱山で市使用する資材を収納する目的で建造されました。外壁のレンガは縦と横を交互に積み重ねていくイギリス積みで組まれています。

大間地区 大間港クレーン台座・ローダー橋脚

大間地区 大間港クレーン台座・ローダー橋脚鉱石の搬出や石炭などを搬入するために築港されました。