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佐渡金銀山を世界遺産に

記事ID:0004502 更新日:2021年3月1日更新 印刷ページ表示

かつて「黄金の国ジパング」と呼ばれた日本。その日本にあって、佐渡には、400年以上にわたって採掘が続けられてきた金銀山とその鉱山技術の変遷を伝える遺跡が数多く残されています。

2010年11月22日、佐渡金銀山は、「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」としてユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。

佐渡は古来から「金の島」と呼ばれてきました。
『今昔物語集』などによると、
12世紀頃には砂金が採れる島として知られていたようです。
1989年の採掘休止までに、記録されているだけでも、
78トンの金と2,330トンの銀を産出しました。

日本最大の金銀山

佐渡の金銀山開発は16世紀なかばから本格化しました。江戸時代には日本最大の金銀山として世界有数の産出量を誇り、幕府の財政を支えました。
佐渡には金銀山を目当てに全国各地から多ぜいの人が集まり、最盛期には約5万人もの人が暮らした鉱山都市・相川が誕生しました。明治時代には、西洋技術の導入と日本独自の技術革新によってさらに採掘量が増加し、日本の近代化の一翼を担いました。

佐渡で確立された鉱山技術や経営方法は、国内各地の鉱山開発にも大きな影響を与えました。

鉱山技術の博物館:生きている400年の歴史

400年以上にわたって輝き続けた金の島・佐渡。佐渡では、鉱石の採掘や金銀の製錬だけでなく、貨幣(小判・印銀)の鋳造もおこなわれ、その一連の技術工程がひとつの鉱山で完結していたことが大きな特徴です。

砂金採掘のために切り崩された山、鉱石の露頭堀り・坑道堀りの跡、西洋から導入した技術による竪坑や製錬施設など、佐渡には、人類が獲得したほぼすべての鉱山技術を見ることのできる遺跡と、鉱山を支えた人々が暮らした鉱山集落や鉱山都市の景観が今もあざやかにのこされています。