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佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観(新潟県佐渡市)

記事ID:0004521 更新日:2021年3月1日更新 印刷ページ表示

佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観
佐渡相川の鉱山都市景観 全覧図(奈良文化財研究所景観研究室 監修、北野陽子 作画)​

  1. 道遊の割戸
  2. 父の割戸
  3. 宗太夫間歩
  4. 大切山間歩
  5. 南沢疎水道
  6. 上相川地区
  7. 上寺町地区
  8. 佐渡奉行所跡
  9. 鐘楼
  10. 河村彦左衛門供養塔
  11. 大久保長安逆修塔
  12. 上町地区
  13. 大立竪坑櫓
  14. 大立竪坑捲揚機室
  15. 高任竪坑櫓
  16. 道遊坑
  17. 高任粗砕場
  18. 高任貯鉱舎とベルトコンベアヤード
  19. 高任分析所
  20. 間ノ山搗鉱場
  21. 間ノ山上橋
  22. 間ノ山下橋
  23. 諏訪隧道・神明トンネル
  24. 佐渡鉱山機械工場
  25. 北沢浮遊選鉱場
  26. 北沢火力発電所
  27. 北沢地区工作工場群
  28. 御料局佐渡支庁跡
  29. 50メートルシックナー
  30. 大間港
  31. 大間火力発電所
  32. 吹上海岸石切場跡
  33. トロッコ軌道跡
  34. 旧相川拘置支所
  35. 旧相川裁判所
  36. 大山祇神社
  37. 長坂
  38. 旧相川税務署
  39. 善知鳥神社
  40. 春日崎

道遊(どうゆう)の割戸(わりと)(国史跡)

相川金銀山のシンボルとなっている道遊の割戸は、慶長6年(1601)に鶴子銀山の山師らによって発見されたと伝わる道遊山の巨大な露天掘りの跡です。地表に露出した金銀鉱脈を山頂から掘り下げたことにより、山の中央がV字型に割れています。17世紀末の絵図には「青柳(あおやぎ)の割戸」と記されています。下部の大きな穴は、明治時代以降のダイナマイトを使用した採掘の跡です。現在、道遊坑の内部を通り、割戸の真下まで見学することができます。

現在の道遊の割戸の画像
現在の道遊の割戸

大正〜昭和初期の道遊の割戸(相川郷土博物館所蔵)の画像
大正〜昭和初期の道遊の割戸(相川郷土博物館所蔵)

父(てて)の割戸(わりと)(国史跡)

父の割戸は、相川金銀山の初期の採掘形態である露頭掘りの様相を示す代表的な遺構です。慶長6年(1601)に道遊山や六十枚間歩とともに鶴子銀山の山師により発見されたと伝えられています。

父の割戸 露頭掘り跡の画像
父の割戸 露頭掘り跡

宗太夫(そうだゆう)間歩(まぶ)(国史跡)

宗太夫間歩は、相川金銀山最大の鉱脈「青盤脈(あおばんみゃく)」の西端に位置し、江戸時代の採掘の特徴である「将棋の駒形」の坑道、斜坑、小型の探鉱坑道(通称「狸穴」)、煙穴などが数多く残されています。このような大型坑道は17世紀に開削されたものが多く、坑内には、排水のため「水上輪」が設置されていました。300年前の姿を今に伝える坑道として、平成6年(1994)に国史跡に指定されました。現在、坑道の一部を利用した観光施設が設けられ、一般公開されています。

宗太夫間歩 坑口の画像
宗太夫間歩 坑口

青盤脈採掘跡遠景​の画像
青盤脈採掘跡遠景

大切山(おおきりやま)間歩(まぶ)(国史跡)

大切山間歩は、山師 味方(みかた)与次右衛門(よじうえもん)が開削した大型坑道の一つです。寛永11年(1634)に掘り始め、目指す大切脈に到達したのは正保4年(1647)で、開削より14年の歳月を要しました。この坑道の最大の特徴は、本坑道に並行して通気用の坑道を掘っている点で、2本の坑道を部分的に連結することで空気が循環する仕組みとなっています。また、昭和期まで採掘が続けられたことにより、江戸時代から昭和時代までの様々な鉱石採掘技術の痕跡を見ることができます。

大切山間歩跡坑内 シュリンケージ採掘跡の画像
大切山間歩跡坑内 シュリンケージ採掘跡

大切山間歩跡坑内​の画像
大切山間歩跡坑内

南沢(みなみざわ)疎水道(そすいどう)(国史跡)

南沢疎水道は、相川金銀山の坑内の湧水を排水するために掘られた最も規模の大きな排水坑道です。元禄4年(1691)に工事が始まり、約5年後の元禄9年に完成しました。総延長922メートルのこの排水坑道は、工期を短縮するため6ヵ所から同時に掘進されましたが、開通した時の誤差はほとんど無く、当時の測量技術の高さを知ることができるものとして、一部が国史跡に指定されています。現在も使用されており、坑道内の排水は江戸沢で間切川に放流されています。

南沢疎水道内部現況の画像
南沢疎水道内部現況

南沢疎水道入口​の画像
南沢疎水道入口

上相川(かみあいかわ)地区(国史跡)

上相川は、江戸時代の初め相川金銀山の発見に伴って誕生した鉱山集落のあった場所です。現在でも、ゆるやかな山の斜面を段切りにして造成した短冊形の町割や道路など、当時の町の形態がほぼそのまま残されています。ここには、山師や金穿(かなほり)大工のほか、買石や床屋など製錬業者も住んでいました。17世紀半ばの記録では、22の町と513軒の家があったとされ、大山袛神社や専照寺、法華寺などの寺社跡もあり、「上相川千軒」といわれた当時の賑わいぶりが想像できます。

「上相川絵図」宝暦2年(1752)作製・文化9年(1812)調製 相川郷土博物館所蔵の画像
「上相川絵図」宝暦2年(1752)作製・文化9年(1812)調製 相川郷土博物館所蔵

上相川地区九郎左衛門町跡とテラス群​の画像
上相川地区九郎左衛門町跡とテラス群

上寺町(かみてらまち)地区(国史跡)

上寺町地区は、16世紀末から17世紀初頭にかけて開発が始まった相川金銀山の発展に伴い、数多くの寺院が建立された地域です。上寺町は江戸時代中期に最盛期を迎え、昭和20年代に無住となりましが、現在でも、テラスや石垣等の遺構や墓石等の石造物が良好に遺存しています。

興禅寺石段・石垣の画像
興禅寺石段・石垣

西光寺北側斜面のテラスと石垣​の画像
西光寺北側斜面のテラスと石垣

佐渡奉行所跡(国史跡)

慶長8年(1603)、大久保(おおくぼ)長安(ながやす)によって鶴子(つるし)銀山の陣屋が相川に移され、後に佐渡奉行所となりました。相川湾を一望できる上町台地の先端に築かれた奉行所を中心に、相川の町立てが行われたといわれています。また、宝暦年間には奉行所敷地内に寄勝場が設けられ、国内で唯一鉱山に係る施設を持った奉行所であり、江戸時代の佐渡の政治経済の中心として機能しました。江戸時代を通して5度火災に遭いましたが、平成12年(2000)、発掘調査の成果や絵図をもとに安政年間(1854〜1859)当時の姿に復元されました。

佐渡奉行所跡〔復原〕​の画像
佐渡奉行所跡〔復原〕

鐘楼(しょうろう)(国史跡)

最初は奉行所に太鼓を置いて相川市中に時刻を知らせていましたが、正徳2年(1712)、時鐘を鋳造し、相川丸山(六右衛門町)に鐘楼を建てました。間もなく鐘が破れたことと、奉行所からも遠く、鐘の音が届かないことから、正徳3年、奉行 荻原(おぎわら)重秀(しげひで)の命によって新たに佐渡産の銅で鋳造した鐘を現在の位置である八百屋町に設置し、朝夕の時刻を知らせました。鐘楼は、平成15年(2003)に解体修理され、現在は地元の有志によって鐘が撞かれています。

鐘楼 現況の画像
鐘楼 現況

鐘楼の古写真(相川郷土博物館所蔵)の画像
鐘楼の古写真(相川郷土博物館所蔵)

河村(かわむら)彦左衛門(ひこざえもん)供養塔(国史跡)

河村彦左衛門は、天正17年(1589)に上杉景勝が佐渡に派遣した代官の一人で、文禄4年(1595)に鶴子銀山の経営を担当しました。関ヶ原の戦い以後、鉱山経営の才覚をかわれて徳川家の家臣となり、引き続き佐渡代官の任にあたりました。供養塔は、慶長13年(1608)に相川江戸沢町の大安寺境内に建立されたもので、高さが2メートルを超える巨大な五輪塔(石英安山岩製)です。

大安寺の画像
大安寺

河村彦左衛門供養塔​の画像
河村彦左衛門供養塔

大久保(おおくぼ)長安(ながやす)逆修(ぎゃくしゅう)塔(国史跡)

大久保長安は甲斐国出身で、武田氏のもとで黒川金山の経営に当たり、武田氏滅亡後徳川家康に仕え、慶長8年(1603)に佐渡代官に任じられました。佐渡では、鶴子にあった陣屋の相川移転や相川市街地の整備を行ったほか、鉱山を直営にして最新技術を導入するなど鉱山の発展に尽力しました。逆襲塔は、長安が慶長11年に相川江戸沢町に建立した大安寺境内に慶長16年に建立されたもので、福井県の笏谷石を用い、宝篋印(ほうきょういん)塔を切妻平入石祠内に収納した形式です。

大久保長安逆修塔の画像
大久保長安逆修塔

上町(かみまち)地区

慶長8年(1603)に佐渡代官に任命された大久保長安は、上町台地の先端に建てた陣屋(のちの佐渡奉行所)を中心とした計画的な町割を整備しました。特に、相川金銀山から佐渡奉行所へ続く上町台地には、鉱山関係者や役人のほか、様々な職業の人々が集まり、当時のメインストリートとして大変な賑わいをみせました。現在も、往時の面影を偲ばせる町名や地割がそのままに残されています。

現在の上町地区 撮影:杉本和樹(東大寺フォト)​の画像
現在の上町地区 撮影:杉本和樹(東大寺フォト)

大立(おおだて)竪坑(たてこう)櫓(やぐら)(国史跡・国重要文化財)

大立竪坑は、明治10年(1877)にドイツ人技師アドルフ・レーの指導によって完成した、金属鉱山では日本初となる洋式竪坑です。当初、ケージ捲揚げの動力は馬力による馬絞車(ばこうしゃ)でしたが、後に蒸気動力、電動の捲揚機へと変更され、平成元年(1989)の休山まで主要施設として稼動しました。現存する竪坑櫓は、昭和15年(1940)に建設された鉄骨製のものです。

現在の大立竪坑櫓(撮影:西山芳一)の画像
現在の大立竪坑櫓(撮影:西山芳一)

明治34〜末の大立地区(ゴールデン佐渡所蔵)​の画像
明治34〜末の大立地区(ゴールデン佐渡所蔵)

大立(おおだて)竪坑(たてこう)捲揚機(まきあげき)室(国史跡・国重要文化財)

大立竪坑捲揚機室は、昭和13年(1938)の大立竪坑捲揚拡大計画に伴い、屋外にあった捲揚室を屋内に移設したもので、平成元年(1989)の休山まで稼動しました。石積アーチの入口を通ると、岩盤を掘削しコンクリートで補強した部屋があり、竪坑の捲揚げに使われた捲揚機や坑内に圧縮空気を送るためのコンプレッサーなど、当時の機械類が残されています。

大立竪坑巻揚機室(撮影:西山芳一)の画像
大立竪坑巻揚機室(撮影:西山芳一)

大立竪坑捲揚室内複胴捲揚機​の画像
大立竪坑捲揚室内複胴捲揚機

高任(たかとう)竪坑(たてこう)櫓(やぐら)(国史跡)

道遊坑(どうゆうこう)の横にある高任竪坑は、明治18年(1885)佐渡鉱山局長に任ぜられた大島(おおしま)高任(たかとう)の計画により、明治20年に開坑した竪坑で、その功績を称えるため、「高任竪坑」と命名されました。後にさらに開削が進められ、最終的には深度が667メートルに達する佐渡鉱山で最も深い竪坑となりました。竪坑櫓は昭和27年(1952)の大縮小に伴い、現存する小型のものに変更されました。

高任竪坑櫓の画像
高任竪坑櫓

高任竪坑櫓(昭和10年以降)ゴールデン佐渡所蔵​の画像
高任竪坑櫓(昭和10年以降)ゴールデン佐渡所蔵

道遊坑(どうゆうこう)(国史跡・国重要文化財)

通洞坑とも呼ばれる道遊坑は、明治32年(1899)に開坑し、現在は、坑口より延長約20メートルの石積、次助坑の結節点まで延びるコンクリート造のトンネルとトロッコのレールが残されています。操業時には蓄電池式機関車やトロッコによって坑内作業員や採鉱・坑内保全用の資材などが行き来しました。現在は観光用坑道として一部が公開されています。

道遊坑 坑内(撮影:西山芳一)​の画像
道遊坑 坑内(撮影:西山芳一)

高任(たかとう)粗砕場(そさいば)(国史跡・国重要文化財)

高任粗砕場は、昭和12年(1937)頃に建てられた鉱石の一時破砕を行う施設で、平成元年(1989)まで使用されました。坑内からトロッコで運ばれた鉱石を上から落下させ、機械による鉱石の分級・破砕が行われました。ここで破砕された鉱石はベルトコンベアーで貯鉱舎へ運ばれました。

現在の高任粗砕場(撮影:西山芳一)の画像
現在の高任粗砕場(撮影:西山芳一)

昭和12年の高任粗砕場(遠景)(株式会社ゴールデン佐渡所蔵)​の画像
昭和12年の高任粗砕場(遠景)(株式会社ゴールデン佐渡所蔵)

高任(たかとう)貯鉱舎(ちょこうしゃ)とベルトコンベアヤード(国史跡・重要文化財)

高任貯鉱舎は、粗砕場で砕かれた鉱石をベルトコンベアーで運び一時保管するため、昭和13年(1938)に建てられた施設です。2,500トンの鉱石を貯めることができ、平成元年(1989)まで使用されました。

高任貯鉱舎の画像
高任貯鉱舎

高任貯鉱舎とベルトコンベアヤード(中央)、中尾変電所(右)の画像
高任貯鉱舎とベルトコンベアヤード(中央)、中尾変電所(右)

高任(たかとう)分析所(国史跡)

高任分析所は、坑内で採掘した鉱石の品位を調べるための施設です。この付近には元々第二搗鉱場(とうこうば)の工場がありましたが、昭和13年(1938)頃に高任(たかとう)粗砕場(そさいば)が建設されたため撤去され、その跡地にコンプレッサー室が建てられました。現存する分析所は、昭和27年以降に北沢の分析所閉鎖に伴いコンプレッサー室の施設を流用したものです。

高任分析所​の画像
高任分析所

間ノ山(あいのやま)搗鉱場(とうこうば)(国史跡)

濁川右岸にある間ノ山搗鉱場は、当時の最先端技術であった搗鉱製錬を行った施設で、明治24年(1891)の第一搗鉱場建設から昭和18年(1943)の廃止に至るまで、佐渡鉱山を長期間にわたって支えた主要施設です。現在は、機械類や建物は撤去され、建物の基礎部分だけが残されています。

現在の間ノ山搗鉱場の画像
現在の間ノ山搗鉱場

昭和初期の間ノ山搗鉱場(ゴールデン佐渡蔵)​の画像
昭和初期の間ノ山搗鉱場(ゴールデン佐渡蔵)

間ノ山(あいのやま)上橋(かみばし)(国史跡・国重要文化財)

間ノ山上橋は、相川の鉱山地区と中心市街地を流れる濁川の中流部に架かる石造の単アーチ橋です。この橋は、濁川の両岸に展開する旧佐渡鉱山の施設群を繋ぐ役割を担っていました。現在、間ノ山地区には石造単アーチ橋が近接して2基残存しており、このアーチ橋は上流側にあります。

間ノ山上橋​の画像
間ノ山上橋​

間ノ山(あいのやま)下橋(しもばし)(国史跡・国重要文化財)

間ノ山下橋は相川の鉱山地区と中心市街地を流れる濁川の中流部に架かる石造の単アーチ橋です。現在、間ノ山地区には石造単アーチ橋が近接して2基残存しており、このアーチ橋は下流側にあります。昭和10年(1935)代に高任粗砕場や高任貯鉱舎等が建設されると、構内の交通経路が変更されたため、鉱山構内側に石積みがなされ、この橋は使用されなくなったと推測されます。

間ノ山下橋​の画像
間ノ山下橋

諏訪(すわ)隧道(ずいどう)・神明(しんめい)トンネル(国史跡)

県道白雲台・乙和池・相川線沿いに残る諏訪隧道・神明トンネルは、鉱石を運搬する鉱車(トロッコ)用のトンネルで、山側が諏訪隧道、海側が神明トンネルです。高任貯鉱舎から北沢地区の各施設を結ぶ運搬のルートを知ることができます。

諏訪隧道​の画像
諏訪隧道

佐渡鉱山機械工場(国史跡・国重要文化財)

建物は道遊坑(通洞坑)、高任粗砕場等を繋ぐ一連の鉱車軌道に接して建てられました。その後、建物の増改築が進められ、蓄電池式機関車の修理・整備のほかに、坑道維持等に用いる道具作成・修理等の鍛冶場や機械工場としての機能を併せ持つようになりました。昭和27年(1952)に行われた鉱山大縮小までに現在の建物配置となり、平成元年(1989)の休山まで機械工場として使用されました。

佐渡鉱山機械工場(撮影:西山芳一)​の画像
佐渡鉱山機械工場(撮影:西山芳一)​

北沢(きたざわ)浮遊(ふゆう)選鉱場(せんこうば)(国史跡)

北沢浮遊選鉱場は、昭和13年(1938)に国策による金の大増産にあわせて建設された浮遊選鉱場で、月間5万トンにおよぶ鉱石の処理を可能とし、完成当時、その規模は東洋一といわれました。昭和15年には、明治時代以降最大の産金量を記録しましたが、昭和27年、佐渡鉱山の大縮小に伴い工場は廃止され、現在では鉄筋コンクリート製の建物基礎だけが残されています。

現在の北沢地区の画像
現在の北沢地区

昭和初期の北沢地区(株式会社ゴールデン佐渡所蔵)​の画像
昭和初期の北沢地区(株式会社ゴールデン佐渡所蔵)

北沢(きたざわ)火力発電所(国史跡)

北沢火力発電所は、イギリス積レンガ造、出力500キロワットの火力発電所で、各工場の動力であった蒸気機関を止め電力へと変更するため、明治41年(1908)に建設されました。現在残されている建物は、3棟あった施設のうち発電機室棟として使われていたもので、室内には明治〜昭和期の古写真が展示されています。

現在の北沢火力発電所の画像
現在の北沢火力発電所

明治41年頃の北沢火力発電所発電機室棟​の画像
明治41年頃の北沢火力発電所発電機室棟​

北沢(きたざわ)地区工作工場群(国史跡)

明治〜昭和期にかけて、北沢浮遊選鉱場の対岸に鉱山に関係する道具類等を製作・修理するための工場群が建てられました。公園整備に伴い調査を行ったところ、昭和期の鋳造工場のキューポラや建物の一部、仕上工場の壁や床などといった工場跡が確認され、昭和17年(1942)の配置図と工場跡の位置が重なるため、当時の姿のまま残されていることがわかりました。現在、公園として整備されています。

鋳造工場 キューポラ施設(発掘調査時)​の画像
鋳造工場 キューポラ施設(発掘調査時)​

御料局(ごりょうきょく)佐渡支庁跡(国史跡)

御料局佐渡支庁は、佐渡鉱山が明治26年(1983)に皇室財産として宮内省御料局の管轄となった時代に佐渡支庁として建てられたもので、屋根瓦には菊の紋章が付けられています。明治29年に佐渡鉱山が三菱合資会社に払下げとなった後も鉱山事務所として使用されました。現在、建物は相川郷土博物館として利用され、相川金銀山に関係する展示が行われています。

御料局佐渡支庁跡​の画像
御料局佐渡支庁跡​

50メートルシックナー(国史跡)

北沢50メートルシックナーは、昭和15年(1940)に建てられた直径50メートルの円形の沈殿槽(ちんでんそう)で、泥状になった鉱物と水を分離するための装置です。相川は水量の多い河川が無いため、工業用水として一部海水を使用していましたが、施設や機械が錆びるため、シックナーで分離された水は工業用水として使われました。

50メートルシックナー(撮影:西山芳一)の画像
50メートルシックナー(撮影:西山芳一)

大間(おおま)港(国史跡)

大間港は、金銀鉱石の搬出や石炭等の搬入のため、明治25年(1982)、愛知県より招いた服部(はっとり)長七(ちょうしち)の指導により造られた港です。「人造石(たたき)」工法による堤防や護岸に特徴があります。人造石工法とは、消石灰と土砂を混ぜた種土に水を入れて練った「たたき」と石積みを組み合わせて造る工法で、コンクリートが普及する以前に使われた技術です。堤防や護岸の石材には、地元相川の石材が使われています。

現在の大間地区遠景の画像
現在の大間地区遠景

大間港の古写真(株式会社ゴールデン佐渡所蔵)の画像
大間港の古写真(株式会社ゴールデン佐渡所蔵)

大間(おおま)火力発電所(国史跡)

大間火力発電所は、佐渡鉱山の昭和10年代の大増産事業に伴って、昭和16年(1940)に完成した発電所です。石炭を燃料としたこの発電所は、建設時に4,200キロワットのタービン2台が置かれ、最終的に9,800キロワットを出力しました。昭和27年の鉱山大縮小の決定に伴い閉鎖され、翌年、火力発電設備はフィリピンのトレド銅山へ売却されました。

大間火力発電所跡​の画像
大間火力発電所跡​

吹上(ふきあげ)海岸石切場跡(国史跡)

吹上海岸石切場跡は、国名勝「佐渡海府(かいふ)海岸」の一部で、相川市街地の北方の海岸段丘崖下に立地しています。海岸は球顆流紋岩を主体とする火成岩によって形成されています。現在、採石作業は行われていませんが、海岸の至るところに、江戸時代前期から続いた石材切出しのための矢穴などの痕を見ることができます。切り出された石材は、相川金銀山で使用する鉱山臼の上磨(うわうす)等に加工されました。

吹上で見られる矢穴の画像
吹上で見られる矢穴

吹上海岸石切場跡の石材を使用した石磨(上磨)​の画像
吹上海岸石切場跡の石材を使用した石磨(上磨)

トロッコ軌道跡(国史跡)

鉱石を運搬したトロッコの軌道跡です。トロッコは鉱山ばかりでなく町の中も走っていました。

現在のトロッコ軌道跡(上寺町地区)撮影:杉本和樹(東大寺フォト)の画像
現在のトロッコ軌道跡(上寺町地区)撮影:杉本和樹(東大寺フォト)

相川海岸沿いガソリン鉱車による浜石の運搬(昭和初期)(株式会社ゴールデン佐渡所蔵)​の画像
相川海岸沿いガソリン鉱車による浜石の運搬(昭和初期)(株式会社ゴールデン佐渡所蔵)​

旧相川拘置支所(国登録有形文化財)

昭和28〜29年(1953〜1954)の建造で、昭和47年まで裁判所の拘置施設として使用されていました。収用定員は18名。現在は、国登録有形文化財として公開されており、地元の皆さんが毎日鍵の開け閉めをしています。

旧相川拘置支所(撮影:西山芳一)​の画像
旧相川拘置支所(撮影:西山芳一)​

旧相川裁判所(市有形文化財)

明治21年(1889)の建築で、昭和44年(1969)まで佐渡の裁判事務を取り扱っていた施設です。被告人は判決が出るまで新五郎町にある拘置支所に勾留されました。江戸時代以降佐渡の政治の中心であった相川には、官公署が多く集まっていました。現在は「佐渡版画村美術館」として活用されています。

現在の旧相川裁判所(撮影:西山芳一)の画像
現在の旧相川裁判所(撮影:西山芳一)​

大山祇(おおやまずみ)神社

慶長10年(1605)、金銀山の繁栄を祈願し、佐渡代官の大久保長安によって創建されました。現存する建物は大正5年(1916)に再建されたものです。

現在の社殿(撮影:西山芳一)​の画像
現在の社殿(撮影:西山芳一)​

長坂(ながさか)

上町と下町をつなぐ坂道で、慶長11年(1606)にこの坂の登り口に牢獄を移設したことから「牢坂」と呼ばれていましたが、正徳3年(1713)に「長坂」に改称されました。

現在の長坂​の画像
現在の長坂​

旧相川税務署(国登録有形文化財)

明治29年(1896)、長坂の登り口に税務署が置かれました。現存する庁舎は昭和6年(1931)の建造で、昭和45年頃まで佐渡の税務を取り扱っていました。

現在の旧相川税務署本館(撮影:西山芳一氏)の画像
現在の旧相川税務署本館(撮影:西山芳一氏)​

善知鳥(うとう)神社

一説に仁平元年(1151)の創建と伝えられ、享保年間(1716〜1735)に現在地に遷りました。現在の社殿は昭和期に再建されたものです。旧相川町の総鎮守であり、毎年10月19日の祭礼には、寛永20年(1643)から続く相川最大の祭礼行事が行われています。

現在の社殿​の画像
現在の社殿​

春日崎(かすがざき)

相川鹿伏の岬端にある春日崎は、相川市街地のほぼ全景を展望できる景勝地で、相川八景の一つにもなっています。寛永5年(1628)に沖を通る船の安全をはかるために置かれた石の灯明台が今も残されています。

春日崎から望む相川市街地 撮影:杉本和樹(東大寺フォト)の画像
春日崎から望む相川市街地 撮影:杉本和樹(東大寺フォト)