本文
佐渡西三川の砂金山由来の農山村景観(新潟県佐渡市)
「8」と「10」は、絵図上での現在の場所の推定値になります。
立残山(たてのこしやま)
西三川砂金山の採掘地のひとつで、現在も人力によって掘り崩された急斜面を望むことができます。山裾には立残山堤から続く水路跡があり、掘り崩した土石に大量の水をかけて余分な土砂を洗い流し、比重の重い砂金を水路の底に溜める「大流し」という作業が行われました。このような新技術が戦国時代末期頃から導入されたことにより、産金量は飛躍的に増大しました。
大山祇(おおやまずみ)神社
文禄2年(1593)、砂金山の繁栄と安全を祈願して建てられた神社です。相川の大山祇神社は、この神社を勧請したものといわれています。能舞台は、19世紀後半の建築と推定され、昭和20年代まで能が演じられていました。鳥居や狛犬などの石造物は、明治期に笹川から北海道へ移住した人が寄進したものです。4月15日の例祭日には、大獅子が出て集落の家々を回ります。
金子勘三郎家
江戸時代後期から明治5年(1872)の閉山まで砂金山の名主を務めた家です。主屋は江戸後期、土蔵は江戸後期の建築です。一方、納屋・牛納屋・便所は明治初期の建物であり、砂金山閉山後に、鉱業から農業へと生業が転換した様子を今に伝えています。(敷地内への立ち入りはご遠慮願います)
金山役所跡・金山役宅跡
江戸時代、西三川砂金山には金山役所が置かれ、佐渡奉行所から2名の役人が派遣されました。採取された砂金は、月末毎に役所に集められて計量され、奉行所へ納める分と、金掘りたちの取分がきめられました。役所跡と役人の住宅跡は、現在も江戸時代の絵図と同一の場所にあり、正面の石垣で囲まれた平坦面が役宅跡、道路を挟んで向い側の畑地が役所跡です。
井ノ上沢(いのかみさわ)
この付近には、かつて諏訪神社があり、その社領田の場所が井ノ上沢といわれています。弘治年間(1555〜58)、松浪遊仁という人物によって掘り潰されたという伝承があり、寛文年間(1661〜73)に諏訪神社は隣の小立村に移転しました。現在、水田は復興され、笹川集落の住民によって耕作されています。
立残山(たてのこしやま)堤(つつみ)跡
江戸時代、西三川砂金山では、砂金流しに用いる大量の水を溜めるための堤が各所に設けられました。この堤の水源は、約1キロメートル離れた場所にあり、江戸時代の絵図によると、途中トンネルを掘って水を引いていたことがわかります。閉山後、周辺の農地の溜池に転用されましたが、現在は埋め立てられ、畑地となっています。
石積み水路跡
西三川砂金山では、堤に溜めた水を採掘地へ送るために、砂金採掘で出た余分な石を利用していくつもの水路が作られました。この水路は、立残山堤から山居山採掘地へ続いており、一部は道路によって寸断されているものの、石垣の上面に平らな石を並べ、底面に水漏れ防止の粘土を貼って水を流した痕跡をみることができます。
旧金山笹川集落境の石碑
笹川集落は、戦国時代末期に、1ヵ月に砂金18枚(約2.9キログラム)を上杉氏に納めたことから、「笹川十八枚村」と呼ばれるようになりました。それ以前は、小立村地内である北部の「金山」と、西三川村地内である南部の「笹川」に分かれており、現集落センター付近に立つ道祖神の石塔が、かつての村境の名残りをとどめています。
阿弥陀堂
江戸時代の絵図に描かれている建物で、内部の須弥壇には中世的な要素を持つ渦巻き紋様が彫られています。須弥壇内には、江戸時代前期の作と推測される阿弥陀如来像が安置されていることから、ほぼ同時期の建立と推測されます。この付近には、中世に遡る山伏の修行場や浄土真宗寺院の跡地もあり、かつての砂金採取に関わった人々の信仰の名残をとどめています。
旧西三川小学校笹川分校
明治13年(1880)の創立で、現在の校舎は、昭和37年(1962)に建てられたものです。昭和33年のピーク時には35名の児童が在籍しましたが、平成21年(2009)年には4名となり、平成22年3月、129年の歴史に幕を閉じました。しかし閉校後も、笹川集落の住民によって、毎年7月に運動会、11月に収穫祭が開催されています。
荒神山(あらかみやま)
山伏が修行したと伝えられる岩山です。江戸時代の絵図には、「この山に入ると祟りがあるとして、住民は大いに恐れた」という内容の記述があり、近くには山伏が修行した滝跡もあります。砂金山の発見・開発には、野山に分け入り修行する山伏が深く関わったとされており、笹川集落一帯には、その痕跡を示す信仰の場が数多く残されています。
虎丸山(とらまるやま)
西三川砂金山最大の稼ぎ場で、江戸時代の絵図には、山の上下2ヵ所で砂金採掘を行っていた様子が描かれています。虎丸山に至る砂金用水路は約3.9キロメートルで、西三川砂金山の水路の中では二番目の長さです。現在も掘り崩されて露出した赤い山肌を見ることができ、かつて砂金山で栄えた笹川集落のシンボル的存在となっています。