佐渡の文化財

水津村史料編年記

  • 編集:佐渡郡水津村郷土史編纂委員会
  • 発行:佐渡郡水津村郷土史編纂委員会
  • 発行日:昭和29年11月1日
  • 非売品

目次

養老五年、佐渡国に三郡を置かる
治安三年、片野尾村弁才天勧請
元應二年、昌助、大川・羽二生・水津・片野尾の境界を定む
應安二年、本間直泰、父より久知郷等の地頭職を譲られ、康暦二年足利義満より安堵状を 受く
應永三年、久知、潟上の間に、青山の件に就て争いあり、平重実の判定を受く
應永十二年 久知給分帳に、片野尾に三名の給与者あリ
應永三五年、師春、片野尾月布施の山境を定む
永正十二年、久知六代時泰、強清水・野浦の境界を定む
享禄二年、野浦村福壽院開基
天文元年、月布施村吉祥寺開基
天文三年、立島村慶蔵院開基
天文六年、久如馬坂城落城
永禄七年、野浦村万福寺開基
天正拾年、片野尾村地蔵院開基?
天正拾六年、寺社書上げに月布施村観音寺あり
慶長五年、奉行河村彦左衛門検地を行う
慶長九年より同十九年迄、横地所左衛門当村支配
慶長十一年、片野尾村浄願寺開基
元和三年、屋敷検地が行わる
寛永三年、相川より水津へ誓願寺を移転
寛永七年、月布施村あたご社神主四郎左エ門、杜地及び神主屋敷の除地(免租)方
    を訴願した
寛永九年、田地を譲渡した証文が遺っている
寛永十九年、月布施・片野尾両村の本船と新船との鱈場漁業に就ての訴訟が仲裁で手打ちとなった
○強清水で古新田の書上げを命ぜられた
承應三年、当時の田地譲渡の文書によって田地の掛りものが分る
寛文二年、水津村太郎左エ門の屋敷検地請けとなる
寛文三年、月布施村が堂宮まで金焼した。火元に対する處置も分る
寛文五年、水津村庄左エ門屋敷検地請けとなる
寛文九年、片野尾村源十郎新田開墾、
○水津村三五吉、金十郎屋敷を検地請く
○片野尾・水津両村の村勢が解る
寛文十年、夷湊両町對野浦村の漁師間に"魚+底"漁場の訴訟あり
寛文十三年、片野尾村で古田衆と新田組とで、水利権について契約結ばる
延宝七年、月布施村四郎右エ門、船置場のことで訴え出た
元和元年、この頃の明地譲渡の証文がある
貞享元年、水津と大川の村境の紛争か落着した
元禄三年、新帳による名寄帳の控と年貢皆済証文とが水津村に遺存
元禄四年、奉行から百姓の日常掟書を触示。
○水津村に公納物並田畑屋敷の覚書遺存
元禄五年、片野尾村の田畑並公納物の覚書及び野浦村・片野尾村の氏神等の書上げ控遺存
元禄七年、水津・月布施両村に寺社書上控遺存
元禄十年、所謂元禄検地帳交付さる
元禄十三年、この項の田地譲渡の証文が遺っている
元禄十四年、片野尾村でかりしきの禁制を定む、
○水津村松右エ門開墾の新田が検地を受く
元禄十五年、立島村新九郎開墾の新田検地請けとなる
宝永四年、水津村松右エ門開墾のばくち田検地請けとなる
宝永七年、巡見使に夷組九拾餘箇村の公納物減免訴願を提出した。
○岩首より大川に至る東浜十五ケ村の惣百姓が公納物の減免方の訴願状を奉行宛に差出した
正徳四年、片野尾佐藤家の長男三吉、相川へ移住、
○諸役人勤方規程及び浦目付の分掌規定制定
享保元年、御料巡見使に村勢を書上げた
享保二年、水津村有米付上ケ帳が遺っている
享保五年、強清水村の立島村飛地を元村へ返付した
享保十九年、月布施山に変死者があった
享保廿年、相川で片野尾村弁才天開帳
元文元年、水津港に破船あり。
○当時に於ける親方・子方の関係を知り得る証文が遺っている
寛保元年、前浜地方に津浪あり、水津港で他国船三艘いたむ
○野浦・月布施両村の山境の訴訟が和解
延享元年、七月一国大雨、然し前浜地方には少しも降雨なく、被害村々の年貢収納不足分を割付上納させられた。
○この年編述された「佐渡名勝志」から、本村の状況が解る
延享二年、秋長雨降り続き、片野尾より小浦迄拾か村から年貢米銀納方を奉行所へ出願
延享四年、大野組役所へ田畑付上帳を差出す
寛延三年、諸銀納小物成帳が片野尾村に現存
宝暦二年、寛延一国農民強訴の結果、諸制度の改革行わる
○月布施及び野浦の新畑検地
宝暦三年、本村等代官藤沼源左エ門の支配となる
宝暦六年、野浦村浄土宗徒十三人、宗門帳の件で悶着が起きた
○片野尾村地蔵院追院となった
宝暦七年、強清水村で延享四年より宝暦元年迄の五ケ年間に於ける年貢の累増高を調べた
○宝暦寺社帳に、本村の寺一寺、宮は悉く開基不知となっている
明和六年、片野尾村出身主右エ門絹ばたを織り初む
明和九年、この年立島村菊池家で行った佛寺卅三回忌献立帳から当時の状況が解る
安永三年、月布施村飯米の貸渡し方を奉行所へ請願す
安永四年、片野尾村に新田検地があった
安永八年、水津村に御番所置かる
○水津村鳥越の新田検地を受く
○水津問屋仲間で御用向き勤方を定む
安永九年、水津村の新田畑検地受けとなる
天明元年、本寺慶宮寺から各未寺門徒え定書が触れ出された
天明四年 野浦村新左エ門無利子不定期返済の金子を貸付けて窮民を救った
天明六年、野浦・月布施・大川三村の鱈漁の紛争和解となった
天明七年、久保田奉行の留任運動が農村の間に内密で行われた
寛政元年、水津村の問屋衆が小"口+間"凌への件に就て番所へ答申した
寛政二年、水津番所よりの問屋勤方に就ての照会に対して答申す
○野浦船宿四名の者売買品仕切留に就て、水津番所へ詑入方を問屋衆に依頼した
○水津問屋衆から番所扱下及び役下より、船に商品を積出す事の停止方を訴願した
寛政三年、飯米積出しの許可証が現存している
寛政五年、水津村で奉行所から資本を借りて、鰯引網を仕立てた
○八月水津問屋八軒船の積出し改め方に付いて願い出た○この年番所、浦目付所の役家等に付き検査が行われた
寛政七年、野浦・立島・強清水・蚫四村より松ケ崎番所関係の諸役を負担免除を願いでた
寛政八年、水津番所役家明細書が現存している
寛政十二年、この年の月布施村の村勢を知る計数が現存している
亨和三年、三月月布施村に板木の抜荷事件があった。
○九月伊能忠敬一行が水津村の名主方に泊った
○片野尾村で名主役持廻りの事で悶着があった?
文化元年、水津外二か所の湊に煎茶の輸出が許された
○この年頃編まれたらしい巡村記の中から村勢が分る
文化五年、水津へ砲術心得の者出張
○野浦々目付所弐人勤めとなる
文化八年、野浦村善七妻さや奉行より褒賞さる
文化十四年、大川・片野尾両村の山境訴訟が和解となった
文政三年、立島村出身慶宮寺十二世隆円逝去
文政五年、三月片野尾・月布施両村で水津番所の奉仕について水津問屋衆と誓約書を取替した
○八月野浦港に破船があった
文政七年、八月水津吸"口+間"掛りの廻船が破船した
文政八年、正月、月布施村で博奕厳禁の取極めをした
○六月羽二生村から水津港小"口+間"普請の件に就て訴願した
文政九年、水津港の吸"口+間"普請行われた
○当分の間河崎・赤玉の両村を水津番所扱下にした
文政十年、二月夷蔵組で夷蔵移転反対陳情をした
○越後水原の百姓眞島・近藤の両氏が水津の吸"口+間"普請に米を寄附したい旨申出た
文政十一年、四月東強清水村三拾壱軒が焼失
○此年より取引が始まった大山酒の証文が現存している
文政十二年、大川村外七ケ村の者が奉行の許可を受けずに柏崎より飯米を買入れ、その代金の振替方を奉行に願出た
○寺院生活を物語る月布施村観音寺の記録が遺っている
文政十三年、水津湊小吸内破損修理普請が行われた
○この年の男子帯立祝の帳面が遺っている
文政十四年、定免切替に付増米申渡された
天保三年、水津定番役井口新次郎等鉱山入用の鉄買出しの為め十一月越後国へ出張した
○十月野浦の吸"口+間"内で破船があった
天保四年、河崎浦目付所が再び夷湊番所役下に復した
天保五年、野浦村多左エ門の妻が溺死
天保六年、七月大風高波のため片野尾・月布施・野浦三村の被害甚大
天保七年、八月野浦及び水津の両湊で廻船拾壱艘が難波
○九月水津村で盗人所罸に就ての規定を設けた
○この年のものと認められる買仕切書が遺っている
天保九年、片野尾村に生海鼠・蚫取調帳が現存している
○上山田村善兵衛等の照会に對し水津を除く五部落がこれに回答した
天保十年、上山田善兵衛騒動を調査に来島した。老中の密偵が・片野尾の弁才天を参詣に来た
天保十一年、野浦村に「村内洗濯騒動」が起った
天保十二年、月布施村で村方を衰微に導くような商売をしない事に誓約した
○奉行川路聖謨が巡村した。
天保十四年、正月水津番所で勤書改制
弘化元年、水津港問屋八軒褒賞されたので大振舞をした
○板畳三百枚他国へ輸出方免許方を出願
弘化二年五月、月布施村五十五軒が焼失
弘化三年、東立島村非人佐兵衛牢抜罪人を取押え褒賞された
○水津番所扱下拾弐ケ村の者が役人の送迎に就き奉行所へ請願して許された
嘉永元年十一月、水津村重立・小前共に奉行より褒賞された?
嘉永三年、諸金銀細工物悉く供出すべき旨触達、野浦・東立島住民一品残らず提出
嘉永四年、新潟小廻船持連が水津番所下遣衆へ夜中出帆の禁制解除方の依頼書を差出した
○野浦村に大火があった
嘉永六年、豊前長州浦住兵衛船が水津沖で沈没した
安政二年、湊町漁師と椎泊より蚫迄十一ケ村の漁師との手繰網漁業の争いが和解した
○水津問屋衆が大川の船宿を出訴した
安政三年、野浦村に大火があった。
○水津港に破船があった
安政六年、イギリス船が水津に来た
万延元年、月布施村に大火があった
○幕府から寺社、山伏、百姓、町人に出金方を仰せつけた?
文久二年、新発田藩物頭坂井栄五郎外八人、水津村に一泊した
慶応元年、水津番所役人三名が扱下村々へ四拾両の金を無心した
○味方弥太夫が各浦々の役銭を調ベた
慶応三年、外国奉行一行が水津村へ来て誓願寺で休息した
明治元年、会津藩土田村猟助外拾弐人、続いて水戸藩の家中拾人、水津に宿泊した
○「光昌覚書」で当時の野浦々目付の様子が分る
明治二年、新政の行政区画改正によって、小木代官所管轄と夷代官所管轄とに分れる
○九月知縣事新五郎水津へ着岸した
○十一月誓願寺壇家惣代、廃寺取消し方を出願した
明治三年、真書宗立島村慶蔵院外七拾九ケ寺の旧住職が廃寺復興の歎願書を提出した
明治四年、水津沖合で加賀湊町の廻船が難破した
昭治五年、「相川縣官員」並に「諸堂除地田畑調」から本村関係のものがわかる
明治六年、大小区劃制施行により本村は三大区一の小区に編入された
明治七年、片野尾生れの僧後藤浄識、京都府下に本籍を定める事となった
八月片野尾村で廻船二艘難波した
明治八年、水津港で東京府下の千石積の廻船が全焼した
明治九年、戸長制度によって本村は三ケ村に併合した
○この年の水津村物産書上帳があり、又夷下蔵納の米高もわかる
○相川縣を新潟縣に併合した
明治十年、城腰より東立島迄九か村の戸長が新潟縣令に小学校の聯区、分離設立方を願い出た
開治十一年、水津港で相川の小廻船壱艘硬船した
開港十六年、越後越前浜神明丸、片野尾村沖合で破船した
明治十七年、風島沖で越中の小廻船一艘破船した
明治二十年、佐渡柳沢村長寿丸水津村で破損した
明治ニ十四年、水津村に先覚会開設せらる
明治ニ十六年、本村の戸数、人口が分る
明治ニ十九年、臼杵喜太郎学校組合委員となる
明治三十年、三十年水害による本村の被害は大きかった
明治三十五年、臼杵喜太郎郡会議員に当選
明治三十六年 菊池泰造郡会議員に当選
明治四十三年、通常縣会で縣道水津線が建議された
明治四十四年、佐渡東部海産漁業組合成立
○十二月の郡会に前浜線郡道繰上げ開鑿方建議された
○当年の村勢が分る
   附録
自宝暦二年至明治七年水津村入用帳
『佐渡四民風俗』に記された水津村
『怪談藻汐草』に載れる本村の話
『日本傳説集』佐渡巻に載れる本村の話(龍王岩・大膳林)
『越前屋』の入船帳による国別入船数
『網干屋』の入船帳による国別入船数
野浦村『加賀屋』入船帳による国別入船数
水津誓願寺略縁起の事
本村行政区の変遷
明治十五年改『佐渡地誌摘要』に記された水津村
大正十二年『佐渡案内』に載れる水津村
蓮華峰寺中興第四世長宥示寂
本村を咏"口+永"んだ民謡
天保頃に於ける本村の姿
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