佐渡の文化財

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日、他
所在地佐渡市相川、沢根
所有者または管理者(株)ゴールデン佐渡、大安寺、佐渡市、他

日本の近世・近代を代表する金銀山遺跡である。佐渡島では、古代より砂金採取が行われてきたが、16世紀半ば頃に鶴子銀山が発見され、さらに慶長元年(1596)に、鶴子の北側に相川金銀山が発見されると、佐渡の鉱業生産は飛躍的な発展を遂げ、幕府直轄の鉱山として江戸幕府の財政を支え、近代以降も平成元年まで操業した。

日本を代表する鉱山遺跡であることから、平成6年に佐渡奉行所跡、道遊の割戸、宗太夫間歩、南沢疏水道、鐘楼、大久保長安逆修塔・河村彦左衛門供養塔、御料局佐渡支庁跡が国史跡に指定され、同21年には鉱山臼(上磨)の石材(球顆流紋岩)を産出した吹上海岸石切場跡、同22年には大立竪坑跡をはじめとする明治から昭和にかけての遺構が追加指定された。

また、平成23年には相川の約1.2㎞南方に位置する鶴子銀山、同24年には金銀山で使用する鉱山臼(下磨)の石材(花崗岩質礫岩)を産出した片辺・鹿野浦海岸石切場跡、同25年には江戸時代初期に鉱山町が形成された上相川地区が、同26年には寺院が密集していた上寺町地区が、同27年には16世紀から平成元年(1989)までの採掘跡である相川金銀山跡、西三川砂金山跡、近代以降の鉱石積出港がある大間地区、鉱山へ電力を供給した発電所のある戸地地区が追加指定され、順次保存が図られている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 宗太夫そうだゆう間歩まぶ

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日
所在地佐渡市下相川
所有者または管理者(株)ゴールデン佐渡

慶長6年(1601)に相川金銀山が発見され、開削された佐渡鉱山最古の坑道「父(てて)の割戸」下の「割間歩」は、同9年(1604)に佐渡代官大久保石見守長安によって定められた官営坑道36ヵ所の1つで、宗太夫間歩はこの割間歩の中の1鉱区(敷)にあたる。

開削年代は、文献や絵図等から元禄年間(1688〜1703)初頭と推測され、「宗太夫」の名称は、当時開削を受け持った山師の名を冠したものと考えられている。

この坑道は、坑口の高さ約3メートル、幅約2メートルで、地下は海面下に達し、他の鉱区ともつながる坑道が縦横に走っている。採掘稼動を効率化するため、鉱石の運搬や排水作業の便等を考慮して掘られた、当時としては画期的な大型斜坑道で、江戸時代の「斜坑道」 を忠実に伝える典型例である。

現在坑道は、「史跡 佐渡金山」の施設として一般公開され、鑚(たがね)や黒ずんだ油煙跡等、当時の原形そのままに、人形や水上輪などを設置して、当時の作業風景を忠実に再現している。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 南沢みなみざわ疎水道そすいどう

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日
所在地佐渡市相川江戸沢町
所有者または管理者(株)ゴールデン佐渡

割間歩鉱区の湧水を排水するため、元禄4年(1691)に採掘が始まり、6年後に完成した総延長922メートルの排水用坑道である。古くは「南沢水貫間切」または「南沢水貫間歩」とも呼ばれた。

全線とも岩盤で、鑚(たがね)と穿鎚(つち)だけが頼りの手掘り作業であったが、振矩師(ふりがねし)静野与右衛門の測量により、工期短縮のために6ヵ所同時に掘進され、1ヵ月の掘進速度は51尺(約15.9メートル)という速さであった。疎水道開通時の合流地点には誤差がほとんどなく、当時の測量技術の高さがうかがえる。

また、坑道内は、天井を山型に切り、底部をいくぶん広げた将棋の駒形に仕上げてあり、規模は幅6尺(1.8メートル)、高さ8尺(2.4メートル)を標準としているが、必ずしも一定していない。

坑内の壁面や天井には細かいノミ跡が残され、卍形や測量の目印にされた「のみ角」という枡形に十字の刻印等が確認できる。坑内の水は現在も相川湾に流れ続けている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 佐渡さど奉行所ぶぎょうしょあと

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日
所在地佐渡市相川広間町
所有者または管理者佐渡市

相川湾を眺望する舌状の台地上にあった江戸幕府の奉行所跡で、江戸時代を通じて佐渡の政治経済の中心を担った。

相川金銀山が発見され、佐渡が幕府直轄地となった慶長6年(1601)当寺、佐渡の陣屋(代官所)は沢根の鶴子銀山付近に置かれていたが、相川金銀山の開発が本格化したことにより、同8年(1603)佐渡代官大久保長安によって相川に移された。

移転当初は現在の敷地の2倍近い広さを持ち、書院造の建物や茶室なども備えていた。敷地の中央には現在の役所と現在の裁判所を兼ねた「御役所」が位置し、その後方には江戸から赴任する佐渡奉行の住む「陣屋」が続き、御役所北側の一段低い場所には「寄勝場(よせせりば)」・「寄床屋(よせどこや)」といった選鉱・製錬に関係する工場群が付属していた。

佐渡奉行所は江戸時代の初期から幕末までに5回類焼したが、その都度再建され、明治時代には、佐渡県庁、相川県庁、高等女学校として利用された。その後は旧制相川中学校として利用されていたが、昭和17年(1942)の火災により江戸時代の建物はすべて焼失した。

戦後は寄勝場跡地に相川中学校校舎が建っていたが、校舎移転により、平成12年(2000)に安政年間の御役所が復元され、現在は勝場ガイダンス施設等とともに一般公開されている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 大久保おおくぼ長安ながやす逆修塔ぎゃくしゅうとう

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日
所在地佐渡市相川江戸沢町
所有者または管理者大安寺

佐渡代官大久保長安(1545〜1613)が自身の冥福を生前に祈るため、慶長16年(1611)に建立した石塔で、長安が逆修寺として建立した大安寺の境内にある。

長安は甲斐国(山梨県)の出身で、武田の支配末期に田辺十郎左衛門のもとで黒川金山の経営に携わった後、徳川家康の家臣となり、慶長5年(1600)に石見銀山、同8年に佐渡金銀山、同11年に伊豆金山の経営を命じられた。佐渡では、鶴子にあった陣屋を相川に移し、相川の町割を整備したほか、鉱山を「御直山(おじきやま)制」と呼ばれる直営形態で経営し、佐渡金銀山繁栄の礎を築いたが、死後財産は幕府に没収され、一族は処刑された。

この逆修塔は、笏谷石製の石造宝篋印塔1基を、切妻平入の石祠内に収納した形式のもので、一部に後補材がみられる。塔身は正面以外無地で、正面に蓮華座上の月輪が、基礎石には連子表現と格狭間の表現が線刻され、「逆修」「大久保石見守殿」等の刻銘とともに建立年が刻まれている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 河村かわむら彦左衛門ひこざえもん供養塔くようとう

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日
所在地佐渡市相川江戸沢町
所有者または管理者大安寺

慶長13年(1608)に没した佐渡代官河村彦左衛門を供養するため、同年に大安寺境内に建立された。

河村彦左衛門(生年不詳〜1601)は、天正17年(1589)に上杉景勝が佐渡に派遣した9人の代官の1人で、文禄4年(1595)に鶴子銀山の経営を担当したほか、慶長2〜5年(1597〜1600)にかけて「慶長の検地」を実施している。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後は、銀山経営の才覚を買われて徳川家の家臣となり、同7年(1602)まで佐渡4代官の1人として在島したが、改易により村上に移ったといわれている。

この供養塔は、高さ277.5㎝の巨大な五輪塔で、石英安山岩製である。各輪正面に五大種子を刻み、地輪に供養者名や建立年、石工の名前が刻まれている。

正面の刻銘

厥以右志者為俗名河村彦左衛門逝去 広岳院殿清□浄栄大禅定門頓証大菩薩
提也千時慶長十三戊申稔今月施主敬伯

背面の刻銘

□□□小泊村大工惣左衛門・・・・・・

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 鐘楼しょうろう

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日
所在地佐渡市相川八百屋町
所有者または管理者佐渡市

佐渡奉行所から京町へ向かう坂の途上、旧相川裁判所(現在の佐渡版画村美術館)の南西に建てられた鐘楼で、「報時鐘」とも、俗に「時の鐘」とも呼ばれた。

相川市中の報時は、宝永7年(1709)に始まったといわれ、当初は奉行所内の太鼓が使用されていた。佐渡奉行荻原重秀の指示により、正徳2年(1712)に最初の時鐘が相川下山之神町で鋳造され、相川六右衛門町の広伝寺境内(丸山)に鐘楼が建てられたが、遠方にある奉行所の大広間まで音が届かなかったため、ほどなくして味噌屋町に移されたという。

現存する時鐘は、当初の時鐘が破れたため、正徳3年(1713)5月に越後高田の鋳物師土肥藤右衛門尉藤原家次が弟子7人をつれてきて下戸浜で鋳造し直したもので、「池の間」と呼ばれる1区に鋳造年と作者の名が陰刻してある。

また、現存する鐘楼は、天保5年(1834)の大火により、味噌屋町の鐘楼を焼失した翌年再建されたもので、2間四方の袴付、切妻造棧瓦葺(旧小羽葺)である。

この時鐘は明治5年(1871)頃まで撞かれた後長らく中断していたが、近年になって再び地元の有志により朝夕撞かれている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 御料局ごりょうきょく佐渡さど支庁跡しちょうあと

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日
所在地佐渡市相川坂下町
所有者または管理者佐渡市、相川郷土博物館管理

江戸時代に幕府直営の鉱山として繁栄した佐渡金銀山は、明治2年(1869)に官営化されて「佐渡鉱山」となり、翌年工部省の管轄下に置かれた。

明治前期は外国人技術者の指導のもとで近代化が進められたが、明治中期には西洋技術を学んだ日本人技術者が開発を引き継ぎ、明治18年(1885)に大蔵省へ移管されて以降は、佐渡鉱山事務局長の大島高任や同局技師の渡辺渡が中心となり、高任・間ノ山地区の開発や大間港の建設を進めていった。

佐渡鉱山は、明治22年(1889)に宮内省へ移管され、御料局佐渡支庁と改称するが、大島高任の後任として渡辺渡が初代佐渡支庁長に命ぜられた。その後も近代鉱山として発展した後、同29年(1896)に三菱合資会社へ払い下げられた。

現存する佐渡支庁の建物は、御料局時代の明治時代後期に建造されたもので、洋風2階建、寄棟造桟瓦葺で屋根瓦には菊の御紋章が付いており、外壁は横板張り、内部は漆喰仕上げとなっている。旧鉱山事務所の後方高台に位置しており、現在は相川郷土博物館の一部として、佐渡鉱山に関連する資料などを公開展示している。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 道遊どうゆう割戸わりと

指定種別史跡
指定年月日平成6年5月24日
所在地佐渡市相川銀山町
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡

佐渡金銀山遺跡を代表する露天掘り跡で、山の頂が真っ二つに掘り割られている姿から、古くは「青柳割戸」と呼ばれていた。

慶長初期に本格稼動した相川金銀山の中でも開発初期の採掘地といわれ、山頂の標高は海抜252メートル、山頂部の割れ目は幅30メートル、深さ74メートルに及ぶ。道遊脈と呼ばれる脈幅約10メートルの優良鉱脈を有しており、割戸下では江戸時代より坑道掘りも断続的に行われていた。

明治18年(1885)に大島高任が初代佐渡鉱山局長に就任し、道遊脈の再開発を計画すると、その後はダイナマイトを使用した採掘が行われ、割戸の直下に落下した鉱石は鉱車に積まれて運搬されていた。

相川市街地西端の春日崎からも遠望できる大規模なこの採掘跡は、江戸時代には相川八景の1つに数えられ、現在も佐渡金銀山遺跡を象徴する存在として親しまれている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 吹上ふきあげ海岸かいがん石切場いしきりばあと

指定種別史跡
指定年月日平成21年7月23日
所在地佐渡市下相川
所有者または管理者国土交通省

鉱山用石磨の石材切出し場で、相川市街地の北、海岸段丘崖下の標高0〜20メートル付近の海岸部に位置する。

近世から近代にかけて長期の採石が行われた結果、大規模な地形の改変がみられ、海岸線に沿って露出する岩場には、矢穴痕や鑿(のみ)痕など、石材を切り出した痕跡が多数残されている。

この岩場の石質は球顆流紋岩で、石材は主に鉱山臼の上磨に利用された。鉱山臼は採掘した金銀の鉱石を粉状にするための道具で、近世初期の上相川遺跡や佐渡奉行所跡の発掘調査でも多数出土しており、石材の採取は鉱山の生産システム上重要な要素であったと考えられている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき きゅう佐渡さど鉱山こうざん明治めいじ以降いこう施設群しせつぐん 大立おおだて地区ちく

現在の大立竪坑周辺

指定種別史跡
指定年月日平成22年2月22日
所在地佐渡市下相川
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡

佐渡鉱山のほぼ中央部に位置し、明治2年(1869)の鉱山官営化とともに外国人技術者によって近代化が進められた地区である。明治10年には、アドルフ・レーの指導の下、ケージ捲揚げによる貴金属鉱山では日本初となる洋式竪坑「大立竪坑」が完成し、平成元年(1989)の操業休止まで、佐渡鉱山の主要施設として稼動した。

現存する鉄製の竪坑櫓は、昭和13年(1938)の大立竪坑捲揚拡大計画に伴って同15年に更新されたもので、同時期に屋外から岩盤内に移設された捲揚室には、当時の捲揚機や坑内に圧縮空気を送るコンプレッサーなどの機械類が現存している。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき きゅう佐渡さど鉱山こうざん明治めいじ以降いこう施設群しせつぐん 間ノ山あいのやま地区ちく

間ノ山搗鉱場跡

指定種別史跡
指定年月日平成22年2月22日
所在地佐渡市相川嘉左衛門町
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡

東側の上相川地区と同時期に鉱山集落があったと考えられている地区である。明治時代以降の近代化に伴い、高任地区とともに様々な施設が建てられ、現在の佐渡金山第3駐車場付近には、金銀成分をほとんど含まない鉱石のズリ山があった。

現在でも搗鉱製錬が行われた間ノ山搗鉱場跡をはじめ、濁川に架かるアーチ橋など、明治中期から昭和10年代にかけて建設された施設がいくつも残されている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき きゅう佐渡さど鉱山こうざん明治めいじ以降いこう施設群しせつぐん 高任たかとう地区ちく

現在の機械工場・道遊坑周辺

指定種別史跡
指定年月日平成22年2月22日
所在地佐渡市相川嘉左衛門町
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡

明治18年(1885)に赴任した佐渡鉱山局長大島高任や日本人技術者によって開発が行われ、同22年開坑の高任竪坑や同32年開坑の道遊坑の坑口が配されるなど、佐渡鉱山の採鉱拠点となった地区である。鉱山地区全体の中心に位置する立地条件から、採鉱・選鉱施設をはじめ、電力供給のためのインフラ施設等、様々な役割を担うこととなり、昭和13年(1938)の重要鉱物増産法の施行後は施設の更新が行われた。

高任粗砕場で砕いた鉱石を運ぶベルトコンベアーヤード、その鉱石を集積する貯鉱舎、現在も高任粗砕場、道遊坑、高任坑などの施設が残されており、佐渡鉱山機械工場には、当時の機械類が展示されている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき きゅう佐渡さど鉱山こうざん明治めいじ以降いこう施設群しせつぐん 北沢きたざわ地区ちく

現在の北沢浮遊選鉱場周辺

指定種別史跡
指定年月日平成22年2月22日
所在地佐渡市相川北沢町
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡

北沢地区は江戸時代には買石(かいし)と呼ばれる製錬業者が集住した町であったが、明治時代以降は選鉱・製錬の拠点に位置付けられ、開発によって大規模な地形改変が行われた地区である。

現存する施設の多くは、明治18年(1885)以降に佐渡鉱山局事務長の大島高任らによる施設拡張や昭和13(1938)年の重要鉱物増産法施行による施設拡張によって建造されたもので、明治期の北沢火力発電所発電機室棟、旧北沢青化・浮遊選鉱所、昭和初期の北沢浮遊選鉱場、50メートルシックナー(濃縮装置)などが現存している。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき きゅう佐渡さど鉱山こうざん明治めいじ以降いこう施設群しせつぐん 戸地とじ地区ちく

現在の戸地川第二発電所

指定種別史跡
指定年月日平成22年2月22日
平成27年10月7日 拡大
所在地佐渡市戸中、他
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡

相川市街地の北約13㎞に位置し、明治〜大正時代にかけて戸地川水力発電所が建設され、佐渡鉱山の動力源の1つとなった地区である。発電所は戸地川を水源とし、大正4年(1915)に上流の第一発電所、同8年に下流の第二発電所が完成した。

これらの発電所は昭和52年(1977)5月に閉鎖され、第一発電所は石垣積の敷地に鉄筋コンクリート製の基礎部のみを残し、建物や発電用水のパイプラインが撤去されたが、第二発電所は木造平屋建、地下1階の建物が現存し、内部には発電機や発電用の給排水管などの発電施設が保存されている。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 鶴子つるし銀山ぎんざんあと

指定種別史跡
指定年月日平成23年2月7日
所在地佐渡市沢根、他
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡、他

大佐渡山地より延びる沢根から沢根五十里にかけての山中に立地し、戦国時代後期から昭和21年(1946)の閉山までの間に銀・銅が採掘された鉱山遺跡である。

山中には今も開発当時の採掘跡が無数に残されており、安土・桃山時代末から江戸時代初期にかけては、隣接して代官屋敷や鉱山集落の鶴子荒町があったと考えられている。

また、鶴子銀山を開発する際は、石見銀山(島根県)からの技術導入があったとみられ、その繁栄は後の相川金銀山の発見・開発にも大きな影響を与えた。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 片辺かたべ鹿野浦かのうら海岸かいがん石切場いしきりばあと

矢穴痕

指定種別史跡
指定年月日平成24年1月24日
所在地佐渡市戸中
所有者または管理者国土交通省、他

鉱山臼(下磨)の切出し場跡で、外海府海岸沿いの海岸段丘崖下、鹿野浦海岸を中心とする標高0〜10メートル付近の海岸部に立地する。

この岩場は緑色凝灰岩中に花崗岩礫を含む花崗岩質礫岩が多く、江戸時代前期〜中期を最盛期として、鉱山臼用の石材を供給していた。『佐渡年代記』等の史料によると、石切場は相川金銀山が繁栄した元和〜寛永期(1615〜1643)頃に開かれたとあり、採石域に残る古い矢穴・矢穴痕も元和期前後のものが大半である。

なお、岩場の一部に削岩機による直径3㎝前後の円柱状の溝が残っていることから、採石そのものは近代まで行われていたようである。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 上相川かみあいかわ地区ちく

指定種別史跡
指定年月日平成25年3月27日
所在地佐渡市相川小右衛門町
所有者または管理者佐渡市、他

16世紀末から17世紀初頭にかけて相川金銀山の開発に伴って形成された集落跡で、現在の相川市街地の東方、濁川左岸の標高150〜250メートルの丘陵部に立地する。

この集落は江戸時代初期に繁栄し、最盛期には「上相川千軒」と称されたといい、慶安5年(1652)の地子銀帳や『佐渡年代記』に町数22町、家数513軒などと記されているが、その後衰微し、明治時代末頃までに廃絶したとみられる。

現況は山林原野となっているが、平成15〜18年度に各種調査が実施され、斜面を造成した平坦地(テラス)群や道路跡、水路跡等の地割や石垣、寺社跡等が確認されたほか、鉱山臼等の石製品、土器・陶磁器類などの遺物が出土した。

江戸時代初期から前期にかけて相川金銀山の発展を支えた鉱山町跡であり、佐渡金銀山遺跡の発展を知る上で重要な遺跡である。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 上寺町かみてらまち地区ちく

指定種別史跡
指定年月日平成26年10月6日
所在地佐渡市相川庄右衛門町他
所有者または管理者佐渡市、他

16世紀末から17世紀初頭にかけての相川金銀山開発に伴って形成された寺町跡で、現在の相川市街地の東方、濁川左岸の標高100〜150メートルの丘陵部に立地する。

江戸時代前期の最盛期には11ヵ寺あったといわれ、明治時代から昭和前期にかけては鉱山労働者の長屋などの施設が存在したが、その後衰微し、現在では万照寺(旧万行寺)1ヵ寺のみが現存している。

現況は山林・原野となっているが、平成24年度に実施した分布調査によって、斜面を造成した平坦地(テラス)群や道路跡、石垣のほか、江戸時代の絵図にみえる寺の跡地や墓地などが確認され、土器・陶磁器類などの遺物も発見された。

江戸時代の鉱山関係者の生活・文化の一端を知る上で重要な遺跡である。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 相川あいかわ金銀山きんぎんざんあと

指定種別史跡
指定年月日平成27年3月10日
所在地佐渡市下相川、外
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡

相川金銀山跡は、16世紀末から休山する平成元年(1989)までの長期間にわたって採掘が行われた佐渡を代表する鉱山遺跡である。大佐渡山地の標高70〜360メートル付近の低山地、佐渡市下相川・相川銀山町などの山林・原野等に位置し、これまでの分布調査によって大切山(おおぎりやま)間歩などの間歩跡113ヵ所、父(てて)の割戸などの露頭掘り跡45ヵ所の近世〜近代の採掘跡が確認されている。

本遺跡は、絵図・文献史料も豊富に残されており、操業当時の鉱山経営の様子を知ることができ、佐渡金銀山遺跡の中でも特に重要な遺跡である。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 西三川にしみかわ砂金山さきんざんあと

指定種別史跡
指定年月日平成27年10月7日
所在地佐渡市西三川
所有者または管理者佐渡市他

西三川砂金山跡は、平安時代の佐渡国における産金場所と推定され、本格的な開発の始まった16世紀末から閉山する明治5年(1872)までの長期間にわたって採掘が行われた砂金山遺跡である。

これまでの分布調査によって、虎丸山などの砂金採取地のほか、砂金採取に使用した水路跡10条、堤跡10基、石組遺構等の砂金採掘遺構が確認され、また、豊富に残されている絵図・文献資料によって、一連の砂金採取システムの様子を知ることができる。

中世から明治5年の閉山までの砂金採取システムを示す遺構が良好に現存し、佐渡金銀山遺跡の中でも特に重要な遺跡である。

国指定 記念物
佐渡さど金銀山きんぎんざん遺跡いせき 大間おおま地区ちく

指定種別史跡
指定年月日平成27年10月7日
所在地佐渡市相川栄町
所有者または管理者㈱ゴールデン佐渡、他

大間地区は、佐渡鉱山の生産品の搬出及び生産に必要な物資の搬入のため、明治25年(1892)に完成した港である。

現在も、コンクリート普及以前のたたき工法の護岸や、昭和10年代の鉱山大増産期に新設されたクレーン台座、ローダー橋脚等の遺構が現存しており、明治〜昭和期の旧佐渡鉱山における生産物・物資の搬出入施設の変遷を示している。

明治〜昭和時代の佐渡鉱山を支えた港湾施設の遺構が操業当時のまま現存し、各時代の鉱山経営の様子を知るうえで重要な鉱山遺跡である。

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