本文
相川:近代化遺産:ギャラリー
大立地区大立竪坑(おおだてちくおおだてたてこう)
日本初の西洋式竪坑。道遊坑のすぐ近くにそびえています。
大立竪坑(おおだてたてこう)
捲揚室に残る昭和時代の捲揚機。ここから垂直に掘られた深さ165メートルの坑道を横切るように、49.5メートルごとに水平坑道が掘られています。
大立竪坑(おおだてたてこう)
捲揚室には大正時代のコンプレッサー(空気圧縮機)も残されています。この竪坑によって採掘量が月産3万トンと劇的に増加しました。
道遊坑(どうゆうこう)
鉱車用レールが敷設され、坑内作業員、採鉱、坑内保全用の資材などが鉱車で往来していました。
道遊坑(どうゆうこう)
足元には鉱石などを運搬するトロッコのレールが残っています。
道遊坑(どうゆうこう)
相川金銀山の坑道は、総延長が約400キロメートル、最深部は海面下530メートルに及びます。両脇を支えるのは、落盤などを防ぐ山留(やまどめ)の木材。
道遊坑(どうゆうこう)
岩盤から染み出た地下水が水たまりになっている。鉱石の採掘は排水との競争でもありました。
佐渡鉱山機械工場(さどこうざんきかいこうじょう)
坑道内で使用されたトロッコや掘削機などの整備や修理を行っていました。
三菱の金庫(みつびしのきんこ)
相川金銀山は1896(明治29)年、宮内省から三菱へ払い下げられ、1989(平成元)年まで採掘が続けられました。
間ノ山地区搗鉱場(あいのやまちくとうこうじょう)
1891(明治24)年、完成。当時、国内では最も整備された製錬所でした。
搗鉱場(とうこうじょう)
右手に見えるのは道遊の割戸。
高任地区工場群(たかとうちくこうじょうぐん)
左より粗砕場、貯鉱舎、分析所(そさいば、ちょこうしゃ、ぶんせきじょ)
粗砕場第1層内部(そさいばだいいっそうないぶ)
鉱内から運び出された鉱石はトロッコに乗りこの粗砕場に運ばれました。
粗砕場(そさいば)
粗砕場に運ばれた鉱石はクラッシャー等の機械により直径15センチメートル以下に破砕されました。
貯鉱舎(ちょこうしゃ)
粗砕場とともに一連の施設として建設され、ベルトコンベヤーでつながれていました。
貯鉱舎(ちょこうしゃ)
最大2,500トンの鉱石を貯蔵し、必要に応じて北沢の選鉱場へ鉱石が運ばれました。
北沢地区50メートルシックナー
選鉱を経て金銀の含有量が少なくなった「泥鉱」を、鉱物と水とに分離・濃縮する施設。
50メートルシックナー
直径50メートル。近づくと圧倒されます。かつては大小さまざまなシックナーが存在していました。
北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう)
浮遊選鉱とは製錬方法の一種であり、金銀採収に応用されたのは佐渡が世界初でした。
北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう)
月間7万トンの鉱石を処理するなど、東洋一の規模を誇っていました。奥に見えるのは日本海。
北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう)
右が浮遊選鉱場、左がシックナー。
北沢浮遊選鉱場(きたざわふゆうせんこうじょう)
上に建っているのは旧公営住宅。その左手には相川金銀山へ続く町並みが続いています。
北沢地区 御料局佐渡支庁跡(ごりょうきょくさどしちょうあと)
1869(明治2)年に官営となった佐渡鉱山は1889(明治22)年には宮内省御料局に移管されました。
大間地区レンガ倉庫
鉱石や鉱山で市使用する資材を収納する目的で建造されました。外壁のレンガは縦と横を交互に積み重ねていくイギリス積みで組まれています。
大間地区 大間港クレーン台座・ローダー橋脚
鉱石の搬出や石炭などを搬入するために築港されました。