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鶴子銀山 *相川鶴子金銀山

記事ID:0004524 更新日:2023年3月31日更新 印刷ページ表示

大滝間歩

鶴子銀山位置図

海上の舟から陸を見ると、山が輝いていた…。その発見伝説は、石見銀山(島根県)のものと似ており、当時の石見と佐渡の深い交流を示唆しています。
山中に残されたおびただしい数の「露頭掘り」の痕跡。そして、眼下の港に整備された街並み。ここで蓄積された鉱山技術と経営の方法は、のちの相川金銀山の開発へと引き継がれていきます。

日本海を渡ってきた鉱山技術

発見の伝説

相川鶴子金銀山に位置する鶴子銀山は1542年、越後国(新潟県)の商人によって発見されたと伝えられています。沖合から見ると山が光っており、上陸して調べたら銀が出た。そこで、その商人は許可を得て銀を採掘し、税として1か月に銀100枚を領主へ納めたと伝えられています。今でも現地には「百枚平」という地名が残り、地表から銀を採掘した無数の露頭掘りの跡を見ることができます。間歩(坑道)の跡も含めると、600か所を超える採掘跡が確認されています。

露頭掘りの跡
山中に無造作に残されている露頭掘りの痕跡。

石見からの技術移転

発見伝説の相似性からわかるように、佐渡は石見銀山(島根県)と深い交流がありました。はるばる日本海を渡って、鶴子にも「横相(よこあい)」と呼ばれる坑道掘りの技術が伝えられました。これによって、複数鉱脈の同時採掘や排水が可能になり、さらに灰吹法という最新の製錬技術も導入されて、産出量は飛躍的に増大しました。

間歩の跡
弥喜知間歩。銀を求めて地中深く掘り進んだ夢の跡。

都市と港湾の整備

空前のシルバーラッシュに沸く鶴子。一攫千金を夢見る人々が全国から集まり、「鶴子千軒」と呼ばれる繁栄期を迎えました。銀山で消費する物資(炭やろうそくなど)を島外から移入するために、眼下の海沿いには港が整備され、商人が集まって街もできました。このようにして、鉱山技術だけでなく、都市・港湾整備の技術も蓄積されていったのです。

沢根集落
銀山の足もとに広がる沢根(さわね)の街並み。銀山の港として発展しました。

そして相川へ

鶴子の奥山にあたる相川で鉱脈が発見されたのは、1601年(慶長6年)。のちに世界有数の産出量を誇ることになる相川金銀山の誕生です。

佐渡の金銀山の中心は相川へと移っていきました。しかし、鶴子で培われた技術と経験があってこそ、相川の繁栄が生まれたと言っていいでしょう。

シルバーラッシュを支えた鶴子銀山は、相川金銀山の開発が本格化するにつれて、徐々にさびれていき、1946年(昭和21年)に閉山しました。