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佐渡金銀山の価値を裏付ける絵図・文献資料
佐渡には、金銀山遺跡のみならず、金銀山の歴史と当時の様子を克明に記録した絵図や文献資料が数多く残されています。これらの資料もまた、佐渡金銀山の世界遺産としての価値を証明する大切な文化遺産です。
佐渡金銀山絵巻
佐渡金銀山の主体であった相川金銀山における採鉱・選鉱・製錬・小判製造などの一連の作業工程を描いた絵巻物で、中には、巻末に西三川砂金山の砂金採掘の様子が描写されたものもあります。
佐渡金銀山絵巻は、1732(享保17)年〜1736(元文元)年頃に奉行所の絵図師によって初めて描かれ、以後、江戸から赴任する佐渡奉行や組頭に提供するのが恒例となっていたようです。
現在、国内外で100点以上の佐渡金銀山絵巻の存在が確認されています。その量と質は国内鉱山の中でも群を抜いており、近世における鉱山の実態を解明するための貴重な資料として高く評価されています。
「佐渡銀山往時之稼行絵巻」[部分](佐渡市所蔵)
「川上家文書」
1605(慶長10)年から1613(慶長18)年までの鉱山の帳簿で、鍛冶炭渡帳(かじずみわたしちょう)・蝋燭渡帳(ろうそくわたしちょう)のほか、鉱山の状況報告や指示など、佐渡在任の家臣と駿河にいる大久保長安の家老との間でやりとりされた書翰が綴られています。
大小の紙片に裁断されて屏風の下張りに転用されていたものを、1931(昭和6)年に郷土史家の川上喚涛(かわかみかんとう)が発見し、整理して23冊の帳簿にまとめたことから、「川上家文書」と名付けられました。
この「川上家文書」は、断片的ながら、江戸時代初期に全国からやってきた山主(山師)たちの名前や稼ぎ場所、鉱山経営の様子などを知ることができる貴重な資料です。
鉱山技術書
江戸時代に日本最大の金銀山として幕府が直接に経営していた佐渡金銀山には、採鉱・選鉱・製錬・小判鋳造についての技術書が数多く残されています。
内容は、鉱山技術全般にわたるものから、それぞれの工程について詳細に記したものなどさまざまですが、鉱山で使用する諸道具や鉱石の分類などの詳しい絵図も挿入されています。これらの技術書によって、坑道や水路の掘削に欠かせない測量、鉱山の最大の悩みであった湧水の処理などにおいて、佐渡金銀山には常に最新の技術が導入され、改良が加えられていたことがわかります。
『金銀山大概書』に載る鉱石の品位の見分け方(相川郷土博物館所蔵)
町絵図・村絵図
相川金銀山が発見され、本格的な開発が始まると、相川の山中に鉱山町が成立し、海岸段丘の先端に建てられた奉行所に向かって町が広がりました。やがて段丘下の海岸沿いにも町だてがおこなわれ、相川はまたたく間に世界でも有数の鉱山都市に発展しました。
江戸時代の町絵図には、町並みや神社仏閣などが詳細に描かれており、鉱山都市・相川の全容を今に伝えています。
相川だけでなく、西三川砂金山のあった笹川集落にも村絵図が残されており、江戸時代の笹川十八村のたたずまいを知ることができます。
「西三川砂金山稼場所図」(佐渡市所蔵)
「相川町絵図」(佐渡市所蔵・永井家より寄贈)
地誌・歴史書
1695(元禄8)年に相川の町医師によって著された『佐渡地志』を初めとして、幕府直轄領 佐渡には多くの地誌・歴史書が残されています。奉行所の記録を編年体にまとめた『佐渡年代記』、相川の町年寄が奉行所の記録に加えて相川や佐渡の村々の出来事を記録した『佐渡国略記』、相川の寺院の住職が鉱山町 相川の地誌から当時の諸職・諸商人、文人などまで幅広く記述した『佐渡相川志』など、枚挙にいとまがありません。
地誌・歴史書以外にも、奉行所の絵図師によって描かれた「天保年間相川年中行事」と題する絵図などがあり、江戸時代に相川で鉱山を支えた人々の暮らしや佐渡の村々の様子が生き生きと伝わってきます。これほど多くの地誌・歴史書が編纂された背景には、幕府から交代で派遣される佐渡奉行や組頭の要請と、金銀山の島 佐渡に対する世の中の大きな関心があったものと考えられます。