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佐渡島の村々への影響
全国から多くの労働者や商人などが佐渡へ集まり、鉱山町 相川はまたたく間に日本有数の大都市に成長しました。当時の繁華街には茶屋が軒を並べ、高価な絹織物を商う店がたち並ぶなど、自由都市的な雰囲気にあふれた活気ある街だったといいます。このような繁栄は、海や野山を生業の場とする佐渡の村々にも大きな変化をもたらしました。
農地の開発
島内の人口が飛躍的に増加したため、奉行所は食糧対策として農耕地の開発を奨励しました。島の外縁部に発達した海岸段丘には棚田がひらかれ、湾岸の砂丘には畑がひらかれて、鉱山町 相川へ大量の食糧を供給しました。
鉱山技術は、農業用水の確保にも応用されました。たとえば、水路の造成には坑道排水に用いられた掛樋が、潅漑用水の汲み上げには水上輪(アルキメデスポンプ)が利用されました。
海ぎわの棚田。佐渡島には海岸段丘がよく発達しており、その多くは水田に開発されています。
新漁法の導入
一方、海からも食料を確保するために、遠く石見(島根県)から延縄漁法が導入されました。技術を持った漁師が集団で佐渡へ移住し、姫津という新しい村に住んで漁業に専従しました。いまでも相川金銀山近郊の漁村には「石見」姓を持つ人々が多く住んでいます。
鉱山で大量に使用された「桶」は、製作に携わった島内の桶職人の技術を向上させました。また、その技術は漁業にも転用されて、「たらい舟」を生み出しました。
たらい舟。桶を半分に短く切ったことから「ハンギリ」とも呼ばれます。サザエやアワビ、ワカメなどをとるために、いまも使用されています。
土木工事のノウハウ
鉱石を細かくすりつぶすために使用された石磨などの石製品は、鉱山で使われなくなると家屋の土台や石垣にも転用されました。
坑道内の落盤などを防ぐ山留(やまどめ)技術は、道路の普請や河川改修などにも応用されました。
相川の石段。海岸段丘上の街とその下にできた街を結ぶため急な石段が数多く残されています。
相川の石垣。鉱山で使用された石磨が転用されています。
神社仏閣への寄進
金銀山の採掘で富を得た山師たちは、鉱山の繁栄と安全を願い、競って寺社へ寄進をしました。
徳川家康にも拝謁した大山師味方但馬が深く帰依した根本寺(新穂銀山の近郊)。
金北山神社。山師 秋田権右衛門に関わりがあるとされています。
人と物の流入にともなって各地の文化も持ち込まれました。このため佐渡は、「芸能と民俗の宝庫」として知られています。これもまた金銀山の歴史が生んだ宝ものです。