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新潟県指定 記念物:相川鉱山遺跡・鎮目市左エ門墓地

記事ID:0005184 更新日:2021年3月1日更新 印刷ページ表示

新潟県指定 記念物

相川鉱山遺跡・鎮目市左エ門墓地(あいかわこうざんいせき・しずめいちざえもんぼち)

相川鉱山遺跡鎮目市左エ門墓地の画像

指定種別 史跡
指定年月日 昭和33年3月5日
所在地 佐渡市下相川
所有者または管理者 総源寺

下相川の吹上海岸に築造された佐渡奉行鎮目市左エ門の墓である。弘化2年(1845)に市左エ門の長男惟吉の八代後継惟成、次男惟忠の八代後継喜一らによって築造されたもので、付近には佐渡金銀山遺跡(国記念物)の一部「吹上海岸石切場跡」が隣接する。

鎮目市左エ門は本名を鎮目惟明(これあきら)といい、先祖は甲斐国鎮目村の出身である。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川側につき、真田攻めでは七本槍の一人として活躍した。合戦後、この功績により大番組頭に抜擢され、元和4年(1618)〜寛永4年(1627)には佐渡奉行として佐渡を統治した。

佐渡奉行としては、諏訪間歩を始めとして33間歩を公費投入の御直山として取り立てたほか、山主の費用で経営する自分山からの公納の定率化を図ることで山主の経営を安定させるなど、佐渡金銀山の復興に力を注いだ。また、相川の全町民に2割安米を常例化し、金銀を総買上げ制にするなど、積極的な産金政策と経済政策にも取り組み、佐渡小判や佐渡一国通用の極印銀の鋳造も行うなど鉱山に活気をもたらした。

歴代の佐渡奉行の中でも名奉行として知られる鎮目市左エ門の業績を伝えるとともに、佐渡金銀山の史跡として重要である。